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横浜地方裁判所 昭和57年(ワ)2156号 判決 1987年8月13日

原告 今野正美

<ほか二名>

右原告ら三名訴訟代理人弁護士 佐藤正八

被告 菅原章一

右訴訟代理人弁護士 中村光彦

右訴訟復代理人弁護士 田淵智久

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告今野政利に対し、二六四七万六九五六円、原告今野正美、同今野彩に対し、各一一九八万八四七八円、及び右各金員に対する昭和五六年四月二一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

旨の判決並びに仮執行の宣言を求める。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨の判決を求める。

第二当事者の主張

一  請求の原因

1  当事者

(一) 原告今野政利(以下「原告政利」という)は亡今野美穂子(以下「亡美穂子」という)の夫であり、原告今野正美(以下「原告正美」という)は原告政利と亡美穂子との間の長女であり、原告今野彩(以下「原告彩」という)はその次女である。

(二) 被告は鶴が台菅原産婦人科診療所(以下「被告診療所」という)を経営している医師である。

2  医療事故の発生

(一) 亡美穂子は第二子(原告彩)受胎後、昭和五五年八月二九日に被告診療所で診察を受け、被告診療所で出産することにして同年一一月から通院を続けた。

(二) 亡美穂子の出産予定日は被告によって昭和五六年四月一日と診断されていたが、同日になっても出産の徴候はみられなかった。

(三) 亡美穂子は被告の指示により四月一四日被告診療所に入院し、その際被告に対し出産予定日から一四日も経過しているので帝王切開によって分娩する処置をとって貰いたい旨希望を述べたが被告はこれに応じなかった。

被告は亡美穂子に対し二時間にわたり陣痛促進剤の点滴を行なったが腹部が痛くなったたけで分娩には至らず翌一五日一旦退院した。

(四) 亡美穂子は被告の指示により、同日茅ヶ崎市立病院(以下「市立病院」という)で、同病院の大高医師の診察を受け、腹部のレントゲン撮影、尿検査等を受けた。

大高医師は亡美穂子に対し、自然分娩ぎりぎりの段階であるが子供は回転して出るものであるから自然に出ないことはないとの意見を述べた。

(五) 被告は四月一五日午後七時ころ原告政利に対し電話により、市立病院の検査の結果胎盤の衰えがないので、すぐ切開の必要はないから二、三日様子をみてほしい旨述べ、原告政利が分娩予定日より相当に遅れているが子供が大きくならないものかと尋ねたのに対し被告はそれ程育つとは思われないと答えた。

(六) 亡美穂子は実母今野すつゑ(以下「すつゑ」という)と共に、四月一八日被告に会い第一子(原告正美)出産の際の母子手帳を見せ、原告正美の体重が出産時三二〇〇グラムと大きかったことを述べて、帝王切開してほしい旨頼んだが被告は切るつもりは全くない、任せて貰いたいと述べて右申出を拒んだ。

(七) 亡美穂子はすつゑと共に四月二〇日午前九時三〇分ころ被告診療所に行き、被告に帝王切開するように強く迫ったが、被告は聞き入れず、亡美穂子に対し午前一〇時ころから午後二時ころまで陣痛促進剤の点滴をした。

(八) 亡美穂子は同日午後三時五五分ころ原告彩を仮死状態で分娩したが、分娩直後から一六〇〇ミリリットルに及ぶ子宮出血を生じ、子宮が収縮せず、失血性のショック状態となって午後五時四五分ころ心不全のため死亡した。

3  被告の不法行為責任(過失)

(一) 被告が帝王切開の処置をとらなかったことの過失

本件分娩は出産予定日から一九日を経過していたのに自然の陣痛が起きない状態にあり、亡美穂子は身長一五〇センチメートル、体重四八キログラムであって体格が小柄であったのに対し、分娩時の原告彩は体重三六二〇グラムと大きかったことからすると、本件分娩において亡美穂子の生命、身体の安全を確保し、安全な分娩を行うためには帝王切開による分娩の方法がとられるべきであった。麻酔術の進歩、手術方法の改良、抗生物質、輸血の利用、術後管理の発達等により帝王切開術が、大変安全な手術になっていること、亡美穂子、原告政利において帝王切開の処置を望み、再三にわたって被告にこの旨を申し入れていたことからも、この処置がとられるべきであった。

もっとも、被告診療所には、帝王切開を行うための人的、物的態勢が整っていない状態であったから、帝王切開の手術を適切に行うために、被告は亡美穂子を、他の相当な病院に転院させるべきであったところ被告はこの処置をとらなかった。

(二) 分娩前における準備の過誤

本件分娩は、予定された分娩の日を経過していたものである上、陣痛微弱であって、陣痛促進剤を使用しており、しかも被告は亡美穂子について児頭骨盤間不均衡の疑いを持っていたのであるから、分娩時に大量の出血を生じることは十分予測できたところである。

したがって、被告は本件分娩に際して、このような出血に備えて対応できる準備を講じておくべきものであったところ、以下の点においてこれを怠り、その結果亡美穂子の分娩直後に生じた出血に適切な処置をなすことができず、死亡の結果を生じさせた。

(1) 異常な出血を生じたときに適切に対応することができるように、医師及び看護婦を手配しておくべきところ、被告病院は、医師としては被告一人、看護婦としては正看護婦一人、準看護婦二人の構成で異常な出血に対応できる態勢になかったのに、何らの手配をしていなかった。

特に、被告診療所の近くには市立病院があり、早期に手配しておけば、麻酔医、外科医など必要な医師の応援が得られる状態にあったのであるから、同病院に手配しておくべきであったところこれを怠った。

(2) 出血が生じ、大量に輸血する必要が生じたときに使用すべき一九ゲージ以上の太い針を用意しておくべきところ、これを怠った。

(三) 分娩後の処置における過誤

(1) 早期止血処置の懈怠

胎児娩出後胎盤娩出前に、胎盤娩出を促進し、出血を防止するため子宮収縮を促進するための処置をとるべきであった。

また、被告は亡美穂子の分娩後に生じた出血に対して、メテルギン二アンプルを注射したが、その後は原告彩の蘇生術にかかりきりで、亡美穂子に対する監視を怠り、メテルギンによる止血の効果がみられなかったに拘らず、子宮収縮のための他の処置、特に、オキシトシン、プロスタグランデインFの静注、プロスタグランデインFの子宮筋注射の処置をとらなかった。

(2) 輸液の遅れ

メテルギン注射の効果がみられないことが明らかになった時に直ちに輸液を行うべきであったところ、被告はこれをなさず、双手圧迫、大動脈圧迫、試験採血の処置をとっていたため約一〇分間遅れて輸液のための血管確保の処置がとられた。

(3) 輸液量の不足

血管確保の処置がとられたときの亡美穂子の出血量は、四〇〇ないし五〇〇ミリリットルを下らない状態であり、なお出血が続いていたのであるから、出血量の一・三倍から二・五倍程度の量の輸液を早急に行う必要があったところ、被告診療所ではこのような場合に必要な一九ゲージの針の準備がなく、二一ゲージの針を使用したことなどにより、必要な量の輸液が行われなかった。

(4) 輸血の遅れ

輸血は出血の量が五〇〇ないし八〇〇ミリリットルに達したときには開始されるべきものである。既に主張のとおり、亡美穂子の出血量は血管確保がなされた午後四時三〇分ころには四〇〇ないし五〇〇ミリリットルに達しており、午後四時四〇分ころには亡美穂子には出血によるショック状態が見られたのであるから、遅くともそのころには輸血が開始されるべきであった。

しかるに、被告は午後四時四〇分ころになって、被告病院から搬送用自動車で約二〇分の距離にある東邦薬品株式会社平塚営業所に輸血用血液の手配をし、午後五時五分ころになって輸血を開始したため輸血の時期を失した。

なお、輸血開始まで輸液によって補うことで足りる場合もあるが、亡美穂子に対する輸液が十分でなかったことは既に主張のとおりである。

(5) 輸血量の不足

輸血は、出血量と同量かこれを上回る量の血液をできる限り早い速度で行うべきものであり、少なくとも二箇所以上の箇所から輸血を行うならば一分間に二〇〇ミリリットルの輸血が可能とされている。

しかるに、被告は輸血用の血液を八〇〇ミリリットル手配したに過ぎず、しかもこの血液を一分間当り一〇ミリリットルという遅い速度で注入したため、一五〇ミリリットルを輸血したところで亡美穂子の心音が微弱となり、心不全のため輸血を続けることが不可能となった。

(6) その他の処置の過誤

被告は亡美穂子の出血に対して、子宮腔内強圧タンポンを使用したが、この処置は感染の危険性がある上子宮の収縮を妨げて却って出血を促す危険があるものとして最近では殆ど用いられていない処置である。

被告は出血後の午後五時三〇分ころ、亡美穂子に対してノルアドレナリンを投与したが、同薬剤は出血に対しては禁怠とされているものである。

尿量の測定は出血の量を知る上において重要な指標となるものであるところ、被告は亡美穂子の出血に対し尿量の測定を怠った。

4  被告の債務不履行

(一) 亡美穂子は昭和五五年八月二九日、被告との間で原告彩の出産について診療契約を締結した。

(二) 被告は、亡美穂子が出産するにつき異常出産の有無を医学的に解明し、異常出産に備えて適切妥当な準備をしたうえ、当時の医療水準に従った適切妥当な医療処置を施して分娩を遂げさせた上母子ともに健康に生存させる義務を負っていた。

(三) 被告は診療契約の履行に際し、請求原因3記載のとおり注意義務に違反したため、亡美穂子を死亡させた。

5  損害

(一) 亡美穂子の逸失利益 三〇三七万三九一二円

亡美穂子は、死亡当時三〇歳の健康な主婦であり理容師の資格を持って、死亡する半年前までは理容師として稼働(時間給)しており、六七歳まで就労可能であったと考えられる。

賃金センサス昭和五五年第一巻第一表における女子労働者学歴計、三〇歳から三四歳までの平均月額給与額、年間賞与額に、年五パーセントの割合によるベースアップを加算し、生活費控除割合を三割として新ホフマン係数を用いて中間利息を控除して計算すると、亡美穂子の逸失利益は三〇三七万三九一二円になる。

(13万1100×12+43万400)×1.05×(1-0.3)×20.6254=3037万3912円

原告政利は亡美穂子の夫として右逸失利益のうち二分の一を、原告正美、同彩は亡美穂子の子として四分の一ずつをそれぞれ相続した。

(二) 原告政利の損害 二五〇万円

原告政利は亡美穂子が死亡したことにより以下の金員を支出した。

(1) 遺体運搬費 二五万円

仙台で葬儀するため、亡美穂子の遺体を茅ヶ崎市から仙台まで運搬するために二五万円を要した。

(2) 葬儀費 二〇〇万円

(3) 仏壇購入費 二五万円

(三) 原告らの慰謝料

本件医療事故により幼い二人の子供を抱え妻を奪われた原告政利と、幼くして母を奪われた原告正美、同彩の精神的苦痛を慰謝するには原告政利については六五〇万円、原告正美、同彩については各々三二五万円の慰謝料をもってするのが相当である。

なお、被告の債務不履行により生じた損害として、民法七一〇条、七一一条の類推適用により原告ら固有の慰謝料を請求する。

よって、被告に対し、不法行為による損害賠償請求権に基づき、これが認められない場合には債務不履行による損害賠償請求権に基づき、原告政利は二六四七万六九五六円、原告正美、同彩はそれぞれ一一九八万八四七八円及び右各金員に対する亡美穂子の死亡した日の翌日である昭和五六年四月二一日から各支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求原因事実に対する認否

1  請求原因1(一)、(二)の事実は認める。

2  同2(一)ないし(三)の事実は認める。同(四)の事実中大高医師が亡美穂子に述べた内容は知らない。その余の事実は認める。

被告が大高医師に対し児頭骨盤間不均衡の有無について意見をきいたところ、大高医師は児頭は骨盤を通過しうる大きさで経膣分娩が可能であり、胎盤機能検査の結果も異常がない旨回答した。

同(五)、(六)の事実は否認する。

同(七)の事実のうち、亡美穂子が四月二〇日に被告診療所に来たところ、出産のため入院したこと(但し、入院したのは午前九時一五分ころである。)、午前一〇時二〇分から午後二時まで陣痛促進剤の点滴をしたことは認め、亡美穂子にすつゑが付き添っていたことは知らない。その余の事実は否認する。

同(八)の事実は認める。但し、子宮出血が始まったのは胎盤娩出直後である。

3  請求原因3(一)の事実のうち、当初出産予定日とされた日から一九日を経過して陣痛がなかったこと、原告彩の分娩時の体重が三六二〇グラムであったこと、亡美穂子の身長についてカルテに一五〇センチメートルとの記載があることは認める。亡美穂子の通常時の体重が約四八キログラムであったことは知らない。その余の主張は争う。

亡美穂子は月経周期が三七日から六〇日と不規則であり、昭和五六年四月一日を分娩予定日としたが二、三週間の遅れは予想されるところであり、四月二〇日ころが正常な分娩予定日であった。

同(二)前文は争う。亡美穂子について、他の一般例に比べ特に大量出血が予測される事情にあったものではない。

同(1)、(2)の主張は争う。市立病院の医師が病院外に派遣されることはないし、市立病院外で診療行為を行うことはない。被告診療所の看護婦の配置に欠けるところはなかった。

被告診療所には一九ゲージの輸血用針が用意されてあった。

同(三)の事実についはすべて争う。小児科医中務紀医師の応援を受け、午後四時五分以降の原告彩に対する蘇生の処置は中務医師が行った。したがって、被告がその蘇生にかかりきりになっていた事実はない。胎児娩出後出血が特に多い場合は別として胎盤娩出後に子宮収縮剤を使用するのが一般である。

静脈注射により投与したメテルギンの量は十分であったし、他種、多量の子宮収縮剤を投与すれば止血しうるというものではない。

輸血は亡美穂子の右腕の静脈を切開し、一八ゲージの針を用いて行った。

ショック状態が悪化して心停止に近い容態であれば、心臓における収縮力の回復を期待してノルアドレナリンの心内注射をなすことは適切な処置である。

その他、輸血、輸液の処置に指摘の誤りはない。

4  請求原因4(債務不履行)の主張は争う。

5  請求原因5の主張はすべて争う。

第三証拠の提出、援用、否認《省略》

理由

第一請求原因1(当事者)について

請求原因1(一)の事実、(二)のうち、被告が鶴が台菅原産婦人科を開設していることは当事者間に争いがない。

第二請求原因2(医療事故の発生)について

一  亡美穂子が第二子である原告彩受胎後、昭和五五年八月二九日、被告診療所で診察を受けたこと、被告が亡美穂子の出産予定日を昭和五六年四月一日と診断したこと、亡美穂子は昭和五五年一一月以降被告診療所に通院を続けたが、出産予定日になっても、分娩の徴候がなかったことは当事者間に争いがない。

《証拠省略》によると以下の事実が認められこの認定に反する証拠はない。

1  昭和五六年三月二五日、四月一日、同月八日の三回にわたり、被告は亡美穂子に対し、子宮頸管部を軟化させ、分娩を進行しやすくするため、エストリールを毎回三錠ずつ処方していた。

2  被告は四月一三日、亡美穂子に対し、翌日入院の準備をしてくるよう指示し、亡美穂子は、翌一四日、原告政利とすつゑに付き添われて被告診療所に入院した。その際、原告政利らは被告に対し、帝王切開の処置をとって貰いたい旨申出たが、被告はこれに応じなかった。入院当日亡美穂子に陣痛がみられなかったため、被告は亡美穂子に対し、陣痛促進剤であるプロスタルモンE内服錠を合計六錠投与し、陣痛促進剤であるアトニンO五単位を静注した。その結果同日午後〇時二五分頃、亡美穂子に陣痛が発来したが、午後三時頃には消滅した。

二  《証拠省略》によると、被告は亡美穂子に児頭骨盤間不均衡と胎盤機能不全の疑いがあったため、入院の翌日である一五日に、亡美穂子に指示して市立病院で診察を受けさせ、同病院の大高医師は亡美穂子に対し、レントゲン撮影、尿検査、問診を行い、児頭は骨盤通過可能な大きさで、回旋すれば経膣分娩が可能であり、胎盤機能も異常がない旨診断し、その旨被告に伝えたことが認められこの設定に反する証拠はない。

三  《証拠省略》によると以下の事実が認められる。後に過失の主張に対する判断において判示するほかに、右認定に反する証拠は見当らない。

1  亡美穂子は四月一八日、すつゑと共に被告診療所で診察を受け、その際、再び被告に帝王切開を望んだが、被告はこれに応じなかった。

2  同月二〇日にも亡美穂子に陣痛がみられなかったため、被告は亡美穂子に対し、同日午前一〇時(以下単に時刻を表示するときは同日の時間を示すものとする。)にエストリール二〇ミリグラムを筋肉注射により投与し、午前一〇時二〇分から午後二時まで、陣痛促進剤であるアトニンO五単位と、プロスタルモン二〇〇〇マイクログラム単位を点滴の方法により静脈から投与した(右事実のうち亡美穂子が、四月二〇日、被告診療所に入院し、陣痛促進剤の点滴を受けたことは当事者間に争いがない。)。その結果午前一〇時五〇分頃には陣痛が発来し、午後〇時五五分に自然破水した。午後三時二五分、亡美穂子は分娩室に移されて、午後三時四〇分から酸素吸入の措置を受け、午後三時五五分頃、体重三六二〇グラムの原告彩を分娩した。その際、原告彩は臍帯を首に巻きつけアブガールスコア四ないし五の中等度の仮死状態であった(右事実のうち亡美穂子が午後三時五五分頃、体重三六二〇グラムの原告彩を分娩し、その際原告彩が仮死状態であったことは当事者間に争いがない。)。

3  被告は原告彩の口や鼻の羊水を吸引し、酸素吸入するなどの手当をするとともに被告診療所の隣で開業している小児科医である中務医師に応援を依頼した。午後四時五分頃、中務医師が被告診療所に到着し、同医師が原告彩の治療に当ったが、午後五時頃、原告彩を市立病院へ転院させることになり、原告彩は午後五時一五分頃到着した救急車により市立病院に運ばれた。

4  亡美穂子は、胎盤娩出までは一〇ないし二〇グラム程度の出血であったが、午後四時一二分、胎盤を娩出した後、約三〇〇ミリリットルの出血を生じた。これに対し、被告は胎盤がすべて娩出されたことを確認したうえで、子宮を触診したところ、子宮が弛緩しており子宮底が触れない状態であった。そこで、被告は亡美穂子に対し、子宮収縮剤であるメテルギン二アンプルを静脈注射の方法により投与したが、子宮が収縮しなかったため、導尿を行い、およそ一〇分間にわたって子宮の双手圧迫を行ったが効果がなく、この間にも間欠的に出血が続いて、出血の総量が四〇〇ないし五〇〇ミリリットルに達した。

午後四時二五分から三〇分頃までの間被告は大動脈圧迫帯を施した上、輸血のため試験採血を行い、左腕の静脈の血管を確保して、循環血量を補充するため輸液としてソリタT3五〇〇ミリリットルを点滴の方法により投与し、他方、O型血液を東邦薬品株式会社の平塚営業所に注文するよう事務員に指示した。そして、再び、メテルギン二アンプルを側管から投与し、酸素吸入を始めた。大動脈圧迫帯をはずして、子宮頸部及び子宮内部の裂傷がないことを確かめ、滅菌ガーゼにより子宮腔内タンポンを施した。さらに輸液としてヘスパンダー五〇〇ミリリットルを点滴により投与した。

午後四時四〇分頃、被告は、あらかじめ緊急の場合に応援にきてくれることになっていた富田医師に応援を求め、同医師は午後五時過ぎ頃に、被告診療所に到着した。

午後四時四五分頃、亡美穂子の出血量は総量が八〇〇ミリリットル近くに達しており、失血性ショックの徴候が現れていた。これに対し、被告は止血剤であるレプチラーゼや強心剤であるカルニゲン、ビタカンファー等を静脈注射により投与した。

午後五時前頃、注文した輸血用赤血球濃厚液一〇〇ミリリットル入り四本が届いたので、被告は交差試験を行ったうえ、午後五時五分頃、亡美穂子に対し、左腕の静脈を切開して、輸血を始めたが、この頃には、亡美穂子の出血の総量は約一〇〇〇ミリリットルに達しており、止血剤や強心剤の投与にもかかわらず、亡美穂子は顔面が蒼白で意識も混濁しており、ショックの状態が悪化していた。被告は、輸血用血液のうち、二本は輸液と共に輸血し、残りの二本はそのまま輸血して死亡までに、最後の一本のうちの半分を残して輸血された。

午後五時二〇分頃、亡美穂子の心音は微弱になって心不全となり、富田医師や中務医師が心マッサージ、人口呼吸を行ったが、血圧は上昇せず、強心剤であるビタカンファーと血圧上昇剤であるノルアドレナリンの心内注射をしたが、亡美穂子は、午後五時四五分には自発呼吸がなくなり、心音を聴取することができなくなって、心不全により死亡した(右事実のうち、亡美穂子が分娩後、全量約一六〇〇ミリリットルの子宮出血を起こし、子宮が収縮せず、失血性のショック状態となり、午後五時四五分頃心不全のため死亡したことは当事者間に争いがない。)。

第三被告の責任(過失)について

一  帝王切開手術の必要性

1  《証拠省略》によると、医学上、帝王切開手術の適応として、①児頭骨盤間不均衡、②前置胎盤、③妊娠中毒症、糖尿病、分娩予定日超過等により、胎盤機能が低下した場合、④分娩が遷延して、分娩時間が延長した場合、子宮内で胎児が細菌感染を起こした場合、胎盤機能不全の場合、胎盤早期剥離の場合等急速な分娩が必要であり、児頭が骨産道の下の方に降りていない場合、⑤骨盤位や横位等胎児の位置が異常であったり、双胎の場合、⑥帝王切開手術等子宮に関する手術の既往歴がある場合が挙げられていることが認められる。

2  そこで、亡美穂子の場合について検討するに、亡美穂子が昭和五一年四月二一日、体重が三二〇〇グラムある第一子原告正美を経膣分娩により出産したことは当事者間に争いがなく、また、昭和五六年四月一五日市立病院において診断の結果、児頭骨盤間不均衡ではないこと、計算上の分娩予定日を過ぎているが、胎盤機能に異常がないことが確認されていたことは前記認定のとおりである。

そして、《証拠省略》によると、亡美穂子の月経周期は三七日から六〇日と不規則であったことが認められるところ、《証拠省略》によると、分娩予定日は月経周期を二八日とする概算法に、妊娠歴速算器による暦の修正を加えて算出するものであるため、妊婦の実際の月経に合わせて修正する必要があるのであり、亡美穂子の場合には、概算法によってなされる診断上の分娩予定日に九日から三二日延長する可能性があったことになること、分娩は予定日の前三週間、後二週間の間に起こるのが生理的であることが認められ、これによると、原告彩の分娩が特に遷延していたものとすることはできない。

亡美穂子が前置胎盤や急速な分娩を必要とする状態であったこと、胎児の位置が異常であったこと、及び子宮に関する手術の既往歴のあることの各事実を認めるに足りる証拠はない。

以上によって判断すると、亡美穂子に帝王切開手術の必要性があったものということはできない。

3  しかも、《証拠省略》によると、分娩後の大量の出血の原因としては子宮破裂、軟産道裂傷、胎盤の剥離障害や胎盤の一部遺残、弛緩出血があると認められるところ、既に認定(前記第二、三4)したとおり亡美穂子に子宮破裂や軟産道裂傷はなく、胎盤はすべて娩出されていたのであり、触診の結果子宮が弛緩し、子宮底が触れない状態であったことから判断すると亡美穂子の出血の原因は子宮弛緩出血と認められるところ、《証拠省略》によると、帝王切開による分娩では経膣分娩よりも子宮の収縮は悪く、亡美穂子について帝王切開手術をしていれば弛緩出血が生じなかったものということはできないことが認められる。

したがって、被告が亡美穂子に対し帝王切開手術をしなかったことと、亡美穂子の死亡との間には因果関係がないというべきである。

二  分娩前の準備の不足

まず、亡美穂子に特に大量出血を予想すべき事情があったかについて検討する。

《証拠省略》によると、分娩が遷延した場合、麻酔、産婦の全身状態の悪い場合、子宮収縮剤の不適切な投与、妊娠四二ないし四三週以後等の分娩においては、そうでない場合に比べ、弛緩出血の発生する割合が高いとされていることが認められる。

そこで、本件分娩がこれらの場合に該るかについて検討する。

本件分娩が、当初診断された分娩予定日を過ぎ四三週目に入っていたことは既に判示のとおりであるが、これが月経周期を二八日とした計算上のものであって、亡美穂子の場合には、月経周期が三七日から六〇日であったため、三九週ないし四二週での分娩であったものであることも既に判示のとおりである。したがって、本件分娩は生理的な範囲内の分娩で、四三週以後の分娩に該らないというべきである。

また、本件分娩において、分娩誘発剤が用いられたことも既に認定のとおりであるが《証拠省略》によると、分娩誘発をした症例を、しなかった症例と比べると弛緩出血の発生する頻度は高いが、誘発例のすべてに弛緩出血を予測し、これに対する準備をすることは一般的ではないこと、本件分娩に要した時間は六時間弱であって比較的短く、分娩が遷延した場合とはいえないことが認められる。

以上によれば、亡美穂子について特に大量出血を予想すべき事情があったものとは認められない。

したがって、これを予測して医師、看護婦等の人的手配、注射針等の物的準備を怠った旨の主張はその余の点に判断を進めるまでもなく理由がない。

三  分娩後の処置における過誤

1  予防的子宮収縮剤の投与

《証拠省略》によると、胎児娩出後、胎盤娩出を促進し、出血を予防するために子宮収縮剤の投与を勧める見解のあることが認められる。しかし、《証拠省略》によると、子宮収縮剤の早期の投与は胎盤の残留を招くことがあり、かえって出血の原因となることもあること、分娩が遷延した場合はともかくとして、そうでない場合は自然の経過に任せたほうがよいとする見解もあること、また、子宮収縮剤の投与が亡美穂子の弛緩出血の発症を予防しえたと判断すべき根拠はないことが認められる。

以上の事実によると、本件分娩において胎盤娩出前に子宮収縮剤を投与する必要があったものとし、かつ、これによって亡美穂子に生じた大量出血を防止し得たものと認めることはできないものというべきである。

2  大量出血を生じた後における子宮収縮剤等の投与

被告が本件分娩において、胎児娩出後に生じた出血に対して止血剤としてメテルギン二アンプルを投与したが、引続いてその他に止血剤、子宮収縮剤の投与をしなかったことは被告において明らかに争わないところである。

原告らは、右メテルギンの投与に対し子宮収縮の反応を示さなかったのであるから、さらに子宮収縮のための収縮剤の投与をなすべきであった旨主張する。

そこで検討するに《証拠省略》によると、分娩後における子宮からの大量出血に対して、子宮収縮剤としてメテルギン、オキシトシン、プロスタグランデインFが有効であり、即効性を目的として動脈注射を、持続性を目的として子宮筋、大腿部、上腕部に筋肉注射を行うべきであり、オキシトシン、メテルギンを投与しても効果がないときにはプロスタグランデインFを子宮筋に筋肉注射して奏功した臨床例があるとされていることが認められる。

しかし、これらの書証はいずれも本件分娩の後である昭和五五年以降に出版された医学書であり、しかも、右見解及び臨床例が、これらの記述がなされた当時においても比較的新しい見解、臨床例として記述されているものであることはその記載内容に照らして明らかなところであるし、右記載を検討しても、これらの子宮収縮剤等の投与の処置が、大量出血に対し、当面かつ当然になされるべき、あるいは第一に選択すべき基本的な処置であるとする趣旨ともみられない。

以上のとおりであるから、右各書証の記載をもってしても、被告が、出血に対して、メテルギン二アンプルを投与したのち引続きプロスタグランデインF等の子宮収縮剤を投与すべきであったとすることはできず、被告が、止血の処置として、右子宮収縮剤等の投与の処置をとらず、双手圧迫等の処置に出たことをもって過誤があったものとすることはできないというべきである。

他に主張を正当と認めるに足りる証拠はない。

3  血管の確保

(一) まず、血管の確保をすべき部位や個数等について検討する。

《証拠省略》によると、大量出血に際しては輸液、輸血用に静脈の確保が必要であり、上肢の末梢静脈(《証拠省略》によると、下肢でもよいというのであるが、《証拠省略》によると、産科出血においては下肢への輸液、輸血は出血しているところへ輸液輸血することになって無意味であるというのであり、下肢の血管確保が有効であるとは断定し得ない。)、内頸静脈、鎖骨下静脈が血管確保に適していること、出血量が八〇〇ミリリットルを超える場合には、さらに輸血用に血管の確保をしたほうが安全であるとされていることが認められ、《証拠省略》によると、一八ないし二〇ゲージの注射針を用いて血管を確保し、場合によっては、静脈切開が必要であるとされていることが認められる。

既に認定した(前記第二、三4)ところによると、被告は亡美穂子の左腕の静脈に血管確保の処置をして輸液を行っており(確保の際の注射針の太さについては、これを確定するに足りる証拠がない)、輸血に際しては静脈の切開を行っているのであり、これによって輸液、輸血が行われているのであるから、血管確保に欠けるところはなく、それ以上に、血管確保の部位、確保の数の当否については、輸液、輸血の量の当否の問題として後に検討する。

(二) 次に、血管を確保すべき時期について検討する。

《証拠省略》によると、分娩後二時間までの出血量が五〇〇ミリリットルを超える場合が異常出血とされており、出血が異常と考えられた場合や出血量が五〇〇ミリリットルを超えた場合には、血管の確保を行うべきであるとされていることが認められる。

そこで、既に認定した(前記第二、三4)ところによると、被告は、亡美穂子の出血量が四ないし五〇〇ミリリットルに達した後、大動脈圧迫帯を施した上で、血管を確保して輸液を行っているのであり、被告が血管確保をした時期が遅きに失したとは認められない。

なお、《証拠省略》によると、第一回のメテルギンの静脈注射に反応せず、大量の出血が持続した時点で輸血を考えるべきであったとされているので、右の時点で出血が異常であると判断し血管確保をすべきであったと考えられないでもないが、《証拠省略》によると、弛緩出血が起きた場合、治療として、まず、子宮内を内診し、子宮収縮剤を投与した上で、双手圧迫を行うべきものとされていることが認められ、他方、《証拠省略》によると、輸液や輸血は出血によるショックに対する処置であることが認められる。したがって、ショックに陥る前に子宮が収縮し、出血が止まれば輸液、輸血の必要はないが、ショックに陥った場合の治療のためにあらかじめ、血管確保を要するものと考えられるから、本件において、被告が亡美穂子の出血量が五〇〇ミリリットルに達する前であり、ショック状態も現れていない時期に、止血のための措置である子宮の双手圧迫を行い、その後に血管を確保したことをもって、血管の確保が遅きに失したものということはできない。

4  輸液量

原告らは被告が亡美穂子に対してした輸液の量が少なかったと主張するので、以下に検討する。

亡美穂子の出血が五〇〇ミリリットルを超えた時点で、被告が血管を確保し輸液を開始したことが、輸液を行う時期として遅きに失したということができないことは右判示のとおりである。

《証拠省略》によると、大量出血によるショックに対する対策として、循環血液量の不足及び細胞外液の減少を補うため、輸液が必要であり、出血が異常と考えられた場合には、輸液を開始する必要があるとされていることが認められ、《証拠省略》によると、必要とする輸液の量については出血量と同量とするものから二・五倍とするものまで多様の意見があることが認められ、その当否を裏付けるべき資料はないから、右範囲内でどれ程の量の輸液を行うかは、診療に当る医師の判断によるものと考えられる。

被告が、出血量が四ないし五〇〇ミリリットルに達した時点である午後四時二五分から三〇分頃までの間に、輸液を開始し、輸液としてソリタT3五〇〇ミリリットル及びヘスパンダー五〇〇ミリリットルを投与したことは既に認定した(前記第二、三4)とおりであり、輸液をどの程度の速度で行ったかについては証拠上これを直接明らかにするに足りる資料はないが、《証拠省略》によると、ヘスパンダーの投与の記載が四時四五分の記載の二行上にあるところからすると、ヘスパンダーの投与は四時四五分より前であり、ヘスパンダーの投与を開始する直前にはソリタT3の投与を終わったものと推認される。この事実によって判断すると、被告はソリタT3五〇〇ミリリットルを一二ないし一八分間で投与し、ヘスパンダーについても同じ速度で投与したものと推認されるところ、以上によれば、五時前後頃にはソリタT3とヘスパンダーの投与を終わったものと考えられる。そして既に認定した(前記第二、三4)ところによると、被告が輸血を開始した五時五分頃に、亡美穂子の出血量は一〇〇〇ミリリットルであったというのであるから、被告は出血量とほぼ同量の輸液を行ったものと推認することができる。

してみると、被告の行った輸液の量は出血量と同量程度のものであって特に少ないとはいえない。

しかも、既に認定したところ(前記第二、三4)によると被告は五時五分頃には輸血を始めており、輸液の終了に引き続いて輸血を行っているところ、《証拠省略》によると輸液は輸血を始めるまでの補助的処置でもあるとされているのであって、輸液についてその量が不足していたということはできない。

5  輸血の時期及び量

(一) 輸血開始時期

被告が亡美穂子に対し輸血を開始した時期が午後五時五分頃であり、その頃の出血量が約一〇〇〇ミリリットルであり失血によるショックの状態が進行していたものと認められることは既に認定のとおりである。

《証拠省略》によると、輸血については、出血量のみでなく、血圧、脈拍、呼吸等の各種の要素を検討した上でこれを決すべきであるが、一般的には輸血開始時の出血量は、八〇〇ないし一〇〇〇ミリリットルとされていること、輸血はその副作用を考慮し、行わなくて済むものであればできる限り避けることが望ましいこと、したがって、七〇〇ないし八〇〇ミリリットル程度の出血であれば、輸血せずに済ませることも多く、全身状態が良ければ一〇〇〇ミリリットル近い出血があっても輸血せずに済むことがあることが認められこれに反する証拠はない。

してみると、被告が亡美穂子に対し、出血が約一〇〇〇ミリリットルに達した時点で輸血を開始したことをもって、特に遅きに失したものとすることはできないというべきである。

原告らは亡美穂子の出血量は午後四時四分頃に約一〇〇〇ミリリットルに達しており、輸血開始時における出血量は右認定の量を超えていた旨主張するが、本件全証拠を検討してもこれを認めるに足りる資料はない。

(二) 輸血量

被告が五時五分頃から輸血を開始して、一〇〇ミリリットル入りの赤血球濃厚液四本のうち、二本を輸液とともに、二本をそのまま輸血し、亡美穂子死亡時までに三本半の輸血を終えていたこと、亡美穂子が五時二〇分頃、心音微弱となったことは、既に認定(第二、三4)のとおりである。

原告らは、輸血を開始して一五分程して亡美穂子の心音が微弱となり、心不全の状態となったところから、輸血し得た量は一五〇ミリリットル程度に過ぎない旨主張するが、心音微弱、心不全になった後輸血が不能になると認めるに足りる資料はなく、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。

また、原告らは輸血速度を速くし、もしくは二箇所以上から輸血し、更に大量を輸血すべきであった旨主張する。

《証拠省略》によると、輸血速度は一分間に二〇〇ミリリットルまで可能であるが輸血速度は一時間に一〇〇〇ミリリットル以下であることが望ましいとされていることが認められるところ、右に認定した輸血量によると被告の行った輸血は右の望ましい範囲内にあると認められる。

そこで、被告が更に大量の輸血をすべきであったかについて検討するに《証拠省略》によると、亡美穂子の出血量に対し、被告が行った輸液、輸血の総量は、通常においては相当の量であって通常はショック状態に陥ることを防止し得る程度のものであったと認められるのに、亡美穂子は出血開始から極めて短時間にショック状態に陥り、輸液、輸血によってこれを防止することができない異常な進行を経ており、その原因として、産婦の全身状態に何らかの異常が潜在的に存在していたものと推定される状態にあることが認められる。したがって、亡美穂子の出血量に対し、被告のした輸血は、輸液と併せると相当な量であったというべきであって、被告がより大量の輸血をしなかったことに過失があったとすることはできない。

(三) 輸血用血液手配の時期及び量

輸血開始の時期、輸血の量について過誤があったものと認められないものである以上、その手配の時期及び量の当否が、亡美穂子の死の結果に原因をなしているものと考える余地はないから、この点に関する原告ら主張の点について判断を進める必要はないものというべきである。

6  応援医師の手配

被告が、午後四時四〇分ころ、富田医師に応援を求め、同五時過ぎころ同医師が被告診療所に到着したものと認められることは既に認定した(前記第二、三4)とおりである。

《証拠判断省略》

そして、輸液、輸血の処置について特段に過誤があったものと認められないことは既に判示したとおりであり、富田医師に対する応援を求める手配がさらに早く行われたならば、亡美穂子の死亡の結果が防止できたことを窺わせるに足りる事情は見当らないから、他の医師の応援を求める措置が遅きに失し、それによって亡美穂子の死亡の結果を生じたものとすることはできない。

7  その他の過失

(一) 原告らは被告が子宮腔内強圧タンポンを実施したことが不適切であると主張し、《証拠省略》によると感染の危険があり、子宮収縮を妨げる危険もあるため、行われなくなっているとされていることが認められるが、他方、《証拠省略》によると、弛緩出血に対する治療方法として、子宮腔内タンポンが挙げられており、他の止血法が効果のない場合には行われるべきものとされていることが認められる。

前記認定(第二、三4)によると、被告は子宮収縮剤の投与、子宮の双手圧迫等の止血法が効果がないため、その後において子宮腔内タンポンを実施しており、被告の処置が不適切であったとすることはできないし、その結果亡美穂子に感染症を生じたものと認めるに足りる証拠は見当らない。

(二) 原告らは被告が尿量の測定をしていないことをもって、被告の過失とする。

本件分娩において被告が亡美穂子について尿量を測定したことを認めるに足りる証拠はなく、《証拠省略》によると、尿量は腎機能の指標となるものであり、出血傾向やショック状態の出血量を知る上での指標となるものであるとされていることが認められる。

しかし、既に認定したように被告のした輸液や輸血に過失が認められない以上、被告が尿量を測定していなかったことをもって亡美穂子の死亡について原因をなしているものとすることはでない。

(三) 原告らは被告の過失として亡美穂子に対しノルアドレナリンを使用すべきでないのにこれを使用したことを指摘している。

《証拠省略》によると、失血性ショックに対する処置として、ノルアドレナリン等の昇圧剤の投与は禁忌であるとされていることが認められるが、他方、《証拠省略》によると、失血性ショックを生じた時でも一時的使用ではあるが、心拍出量、臓器血量増加を目的として昇圧剤を使用し、ノルアドレナリンも心収縮力の増加と抹消血管収縮を期待して投与されるものであることが認められる。そして、被告は既に認定した(前記第二、三4)ように、亡美穂子に輸液、輸血を行い、各種の止血のための処置を行った後、亡美穂子の死亡の直前にノルアドレナリンの心内注射をしたものであることを考慮すると、被告の採った処置に誤りがあったとすることはできない。

(四) 以上のように、被告には原告らの主張する過失は認められないから、その余について判断するまでもなく、原告らの不法行為の主張は理由がない。

第四債務不履行

原告らは、被告が診療契約の履行に際してした注意義務違反として、不法行為における主張と同様の過失を主張しているところ、主張の過失がいずれも認められないことは不法行為の主張に対する判断のとおりである。

なお、既に不法行為の主張について判断したところに鑑定の結果を総合すると、亡美穂子に生じた死の結果は、胎盤娩出後に生じた弛緩出血に基づく失血性ショックによるものと認められ、これに対応した被告の止血、輸血、輸液の処置には、通常の処置としては特段に欠けるところは認められないが、失血性ショックの進行が異常に速く、その原因は亡美穂子に潜在していた身体上の要因にあるものと推認されるのであって、これを予測して対応しなかったことをもって、被告の医療処置に診療契約上の不履行があったものとすることはできない。

もっとも、被告のなした止血の処置、輸血、輸液の処置が当時における医療水準に照らし、唯一最善のものであったと断定すべき資料はないが、鑑定の結果によると、亡美穂子に生じた情況において、個人経営の診療所における医療処置としては、被告のなした医療処置において欠けるところはなかったものとすべきであり、亡美穂子について、あらかじめ弛緩出血の生じることを予見して応援医師の手配をし、あるいは医療設備の整った病院に転院させておくべきであったということができないことも既に判示したとおりである。

以上のとおりであるから、債務不履行に基づく請求についても、その余の点について判断するまでもなく理由がない。

第五結論

よって、原告らの請求は理由がないものとしてこれを棄却することとし、訴訟費用の負担について、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 川上正俊 裁判官上原裕之、同石栗正子は、転補につき署名、押印することができない。裁判長裁判官 川上正俊)

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